久しぶりに〈菜園横の〉物置に入りました。
本棚にある本の背表紙を見るともなしに見ていると、 ” 森田正馬 ” の文字が目に止まりました。
” 森田正馬 ”〈もりた しょうま〉 ?
… … あっ、マドモアゼル・愛氏がよく言っている … 。
※ マドモアゼル・愛氏については、2020 9.7付ブログ記事【『マドモアゼル・愛』氏の話を聴き直す】をご覧ください。
氏は〈もりた しょうま〉と言っていますが、それは通称であって、正式には〈もりた まさたけ〉のようです。
で、さっそく【神経症の時代 わが内なる森田正馬】渡辺利夫著:TBSブリタニカ(右上写真)を読みました。
以下、印象に残ったくだりを紹介します。
… 森田療法の真髄は、症者の苦悩は苦悩のままに、激しい苦悩を引きずりながらも、しかし日常の生活はこれをまっとうさせるというものであった。苦悩は、これを排除しようとはからえばますます昂じる。それゆえ、症者の苦悩はそのままに放置させ、しかしなすべき日常の仕事はこれを継続させるという、ある種の行動療法が正馬のものであった。作家である〈倉田〉百三には、回転恐怖は致し方なしとして、ともかく作品を書き続けるよういいつけた。 … P56
… われわれは、みずからの精神はみずからの意のままに自由にこれを支配することができると考える傾きがある。自分の身体を宇宙に浮かすことができないのは誰でも知っているが、こと精神については、自分で思うように感じ、随意に意志を左右できるかのように考えがちである。ここがそもそもの迷走の始まりであると正馬は主張する。 … P67
… 精神の内界を観察批判して快、不快にかかずらっていた症者の気分本位の心の傾きを重作業をなし遂げたことの人間本然のよろこびに転換させるのである。症者は、仕事を通じて得られる心身機能の発揚のよろこびが何ものにも勝ることを反復体験し、予期考慮と価値的判断を没却して生きることの幸福を体得する。外界の対象と合一し、自我を没却して重作業を一つ一つこなしていく過程で得られる体験的悟得こそが、症者を健常にもどす最後の技法であると正馬は見ていた。
… P101
… 自然生命体としての人間は、生得的に生の欲望において強い存在であり、この欲望は死の恐怖の反面である。生の欲望と死の恐怖とこの両面のきわどい両刃の剣の上に身をおいて、からくもその平衡を保ちながら歩いていく日常が、すなわち人生である。不快、不安、恐怖は、人間が生の欲望を没却できない以上、精神の中に常住するものである。この事実、すなわち死の恐怖が生の欲望の反面であることをまごうことなく認めさせ、その上で生の欲望に率直に身をゆだねて人生を送るという態度にめざめさせることが、森田療法の核心であった。
… P109~110
勤めていた頃、仕事上で不快な気持ちになることが時々ありました。
そんなときは、溜っていた未処理の事務的な〈あまり考えなくてもよい機械的な〉作業をするようにしていました。
遅くまで仕事をすることになりましたが、いつの間にか不快な気持ちが薄らいでいました。
溜っていた仕事を済ませたので、スッキリした気分になったことも大いに関係していると思いますが … 。
退職後は独りでいることが多いせいか、昔のことをよく思い出します。
よいことばかりでなく、嫌なことも … 。
が、山ほどある木立や菜園の手入れがそれを忘れさせてくれます。
私の狭い範囲の知識、経験で物を言うのも何ですが、
森田正馬氏の考えは、現実的だと思います。
森田療法に関する本を読んだのは今回が初めてです。
たまたま手にした本が初めての者にとってもとてもわかりやすく、しかもおもしろく読めたのは幸運でした。