葬儀が終わって2日目。
〈亡き主の〉長男も勤めに行きました。
※ 上司から1週間休むように言われていたそうですが、パートの身で気がひけるらしく、早々と勤めに出たそうです。
で、亡き主の家に残るは奥さん1人。
1人では心もとないようで、長男が勤めから戻る〈午後6時頃〉まで、私も亡き主の家に居ることに。
※ 奥さんは現在90歳で、杖をついて歩いている状態。
〈午前〉9時頃、奥さんを美容院に送って戻ると、家には私1人。
… 10畳2間続きの静まり返った広いところでただ1人 …
2間のうちの一方は仏間で、
遺影と骨壺が淡いブルーの光の中に置かれ、その周りには胡蝶蘭ほか色とりどりの花々や新鮮な果物が … そして、その横には、亡き主を見守るように金色に輝く仏壇。
厳かで静か過ぎるくらいに静かでした。
自ずと遺影が目に入ってきました。
在りし日の主と対面しているようでした。
ふと彼が言っていたことが思い出されました。
私が20歳ぐらい〈昭和50年頃〉のお盆でした。
※ 当時、主は50歳前後の勤め人 … 以下、主の言。
「毎年、盆が来れば思い出すわ。 … わしゃ、〇〇〈私のこと〉よりちょっと若い頃に予科練というところにおったんや。わかりやすく言うと、戦争に行くための訓練をする学校みたいところや。 … 訓練が厳して厳してホントに参ったわ。
ある朝のことやった。点呼のときに一人足りんかったんや。で、上官から探すよう言われて、みんなで探しに行ったんや。 … そしたら、鉄道のところで死んどったんや。 … かわいそうやった。 … 訓練が厳して耐えられんかったやろな。
同期で戦死した者もおるんや。 … … 残念でしようがないわ。 … やっぱり戦争したらダメや。 … … わしゃ、長男やったんで、前線に出るのが後回しになったんや。で、いつ前線に出るんかのお、と思うとったら終戦になってしもうたんや。ちょうど盆の8月15日やった。
予科練が解散になって家へ戻って来るときやった。倉庫に保管してあった缶詰や米がみんなに配られることになったんやけど、家が百姓やったんで、いらん言うてそれらをみんな置いてきたんや。 … で、家に戻ってみると、何にもなかったんや。米はないわ。ましてや缶詰はないわ。お金もないわ … で、ないないづくしや。ウチだけやなーて、周りもほとんどそんな状態やった。
戦後は、そんな状況から始まったんや。それが、まさか今〈昭和50年頃〉みたいに豊かな世の中になるとはのお。 … 夢にも思わんかったわ。 … まあ、そんだけみんながんばったんや … 。」
戦時中のことはあまり話さなかった主でしたが、なぜかしら上記のことが思い出されました。
連日、ウクライナでの出来事を見聞きしているせいでしょうか。
今思うと、当事者ならではの貴重な話でした。
戦前、戦中、戦後を生き抜き、戦争の悲惨さを体験した人が、また1人逝きました。
享年94歳。
穏やかで、公正、公平な人でした。
その彼が、最期に此岸から彼岸に渡る折、傍らで見送ることができたことに縁の深さを感じております。
長い人生の旅、おつかれさまでした。
※ 右上写真 … 久しぶりに木立前に立つと、草ぼうぼう。