【日本語は天才である】を読む

【日本語は天才である】柳瀬尚紀著:新潮社

昨晩からずっと雨。

【日本語は天才である】柳瀬尚紀著:新潮社(右写真)を読了しましたので、印象に残った箇所を紹介します。

 

… … 無一文字だった日本語は、漢字を手に入れて、今度は独自の片仮名と平仮名を作りました。9世紀には定着した独特の文字です。これ自体は日本語の独創として自慢できるのではないでしょうか。 … P51

… 罵りの下手なことを、罵り語をあまり持ち合わせていないことを、日本語は誇りにしていいのではないでしょうか。 … … 日本語は品がいいのですな。 …P87~88

… おしっぽの「お」にはまた、猫に対する親愛の情もこめています。お爪、おヒゲ、お鼻など、同じ気持ちが自ずとこもる。 … … 「お」一つのこの豊かさは、まず外国語にはないでしょう。おしっぽやお爪は、翻訳不可能だと思います。日本語がこういう「お」をもっているということも、日本語の天才たる一端ではないでしょうか。
… P104

… 味の消滅と方言の消滅とは、密接につながっているのではないでしょうか。 … P155

… 妙なカタカナ語の多用は、思考停止、少なくとも翻訳放棄です。初めて出会った文字を翻訳した古代の人々、初めて出会った外国語を翻訳した明治の人びとのことを、たまにはちらりとでも思い起こす必要があるのではないでしょうか。 … P212

 

著者〈柳瀬尚紀氏〉は、英文学者、翻訳家です。

で、英語の真意を日本人に伝えるとき、どんな日本語が適切かについて、現代語のみならず、文語、漢語と広く深く研究なされています。

そして、その結果が、当著書のタイトル名『日本語は天才である』になっています。

外国語〈著者の場合は英語〉に秀でた方は自国語の長短をよく知る、と言われます。

そのような方が、「日本語は天才である」とおっしゃると、日本人の一人として何だかうれしくなりますな。

適切な日本語を使ったブログ記事にすべく日々精進したいと思っています。

【文章読本】 を読む

【文章読本】丸谷才一著:中央公論社

【文章読本】丸谷才一著:中央公論社(右写真)を読み、印象に残った箇所を紹介します。

 

… 作文の極意はただ名文に接し名文に親しむこと、それに盡きる。事実、古来の名文家はみなそうすることによって文章に秀でたので、この場合、例外はまったくなかつたとわたしは信じてゐる。 … P20

… 文章が人間の文化的活動の一つである以上、文化が基本的に持ってゐる遊戯性とすつぱり縁を切ることは不可能なのだ、 … … ただ肝心なのは、 … … 意味の伝達と、論理性が決定的にものをいふといふ不思議な、そして自明この上ない事情である。 … P110

… 誠実という言葉をもし使ふとすれば、それが知性や論理と結びついた姿こそ肝要だろう。当面の狭い論点のなかではどんなに大まじめで立派で純情でも、視野をちょっと広げたり、視角をほんのすこし改めたりすると、たちまち話がをかしくなるやうでは、まして理屈の進め方に無理があつては、読者がそのことに気づいたとたん、筆者は信用を失ってしまふ。 … P225

… 日本語では字面が大事、視覚的な要素が大事である。 … … 最も極端な場合には谷崎〈潤一郎〉のかういふ小説のやうに、凝りに凝ったかたちで目に訴えるのが日本語の文章だといふことを、まづ認識してかかる必要がある。 … P258

… 記すに値することがあってはじめて筆をとれ。書くべきこと、語るべきことがあるとき、言葉は力強く流れるだろう。これこそは人間の精神と文章との極めて自然な関係にほかならない。 … P308

 

奥付に私の字で、 S.52 11/24 と鉛筆書きしてありました。

その日に学生協で買ったのでしょう。

著者〈丸谷氏〉の挙げる例文に文語文が多く、辟易しながら読んだことを覚えています。

今回懐かしく再読しました。

ここ5年ほど毎日のように600字近くのブログ記事を書いているせいでしょうか、45年前と比べ、著者の言わんとしていることが明確に伝わってきました。
〈当時は、ただ … 文章が上手くなりたいな … と、漠然とした気持ちで読んでいたんでしょうな。〉

当ブログ記事で丸谷氏の著書を紹介したのは3度目。
〈1度目は2021  9.3付『【日本語のために】丸谷才一著を読む』 で〉
〈2度目は2022  10.11付 『【ゴシップ的日本語論】を読む』 で〉

よりよい作文が書けることを願う次第です。

【ゴシップ的日本語論】を読む

【ゴシップ的日本語論】丸谷才一著:文藝春秋

【ゴシップ的日本語論】丸谷才一著:文藝春秋(右写真)を読み、印象に残った箇所を紹介します。

 

… もともと日本人は村で生活してゐて、口下手で、呪術的で、情感的であったし、さういふ言語の使い方をしたし、的確で機能的で速度のある叙述の言語をつかふのは苦手であった。ものを考へるとしても、いはば情感的、抒情詩的に考えがちであった。われわれは論説よりも短詩形文学において得意であったし、今でもさうである。 … P67

… 一国の運命は、政治と経済によるだけではなく、言語による所が極めて大きい。あるいは政治と経済を言語が支えている。言語教育は国運を左右し文明を左右する。わたしはさう思ってをります。 … P70

… 人間が言葉を使ふ動物で、そして言葉によっていろいろなことをしてきたし、また、してゐる以上、その言葉の使ひ方の技巧は、人間を研究するための絶好の切り口である。 … … P92

… 夏目漱石の小説がなぜすごいかというと、日本にまだ本格的な小説というものがない時代にロンドンへ行って、当時イギリスで生まれつつあった新しい小説の外観を学び取りながら、日本の現実を見つめて小説を書いた。文学運動の現場で自分も参加して創造していったところがすごい。あとからモダニズム小説を勉強して真似した人とはおよそ程度が違うわけね。漱石の自分で何かを創り出すエネルギーが読者を打つんですね。 … P194

 

丸谷才一氏の著書を当ブログで紹介するのは、2度目です。

1度目は、昨年の9月に紹介しています。
〈2021 9.3付 【日本語のために】丸谷才一著 を読む】〉

丸谷氏については、後輩の川本三郎氏〈評論家〉が、彼の著書【そして、人生はつづく】:平凡社 で次のようにいっています。
… 小説、文芸批評、翻訳。さらに歌や俳句を詠む。書評というジャンルを批評の形式に高める。 … また古典の教養が深かった。 … 『文章読本』を書いた人だけに日本語の乱れには厳しかった。 … … P272~275

 

古典の教養に裏打ちされた正しい日本語とは?

現在『文章読本』丸谷才一著:中央公論社〈昭和52年10月 5版発行〉を再読中です。

私のブログ記事の内容がより伝わりやすくなることを願いつつ。

【日本の心を旅する】を読む

【日本の心を旅する】栗田勇著:春秋社

朝の晴れ間に昨日の作業の続きをしました。

イチゴの苗をポットに植える作業ですが、ちょうど植え終わったときに雨が降り出しました。

何事もやり終えるとスッキリしますな。

 

その後、読みかけの【日本の心を旅する】栗田勇著:春秋社(右上写真)を読了しました。

印象に残った箇所を紹介します。

… … 「万葉集」から「古今集」「新古今集」の和歌が四季をうたうことにいかに熱心であったか。また、さらに連歌、俳諧にいたっては四季の季語がなければ、句が詩が成立しない。言葉をかえれば、四季を除いたら文学や詩が成立しないという国は他にはない。 … P99

… 最澄・空海の平安大乗仏教も、一口で言えば、中国仏教の日本化だった。そこには、自然の四季の生命が決定的に取りこまれる。この自然の生命観を仏教に生かしたのが、後の本覚〈ほんがく〉思想と呼ばれ、日本の伝統芸能でも「草木国土悉皆成仏」として、その後の日本イデオロギーの底流として生きつづけることになる。 … P220

… 従来から日本の宗教界には神道があって、そこに中国から仏教が入ってきたというのではなく、日本の宗教的地盤には在来信仰があって、それが外来仏教の刺激によって一つの日本の仏教として形成されていったと考えられる。
… … 日本では、黄泉〈よみ〉の国、常世〈とこよ〉の国、母の国、地の国などといわれるように、昔から他界思想が豊かにイメージされてきた。日本文化の基盤には、このような他界というもう一つの世界を、はっきりイメージする習慣があったことを忘れてはならない。 …  P262

 

一日の大半を木立で過ごしているせいでしょうか、あるいは年とったせいでしょうか、はたまた気ままに生活ができるようになったせいでしょうか、自然や四季の移ろいがとても身近に感じられるようになってきました。

著者の言う ” 日本の心 ” に私の心がだんだんと重なってきているようです。

読んでいるうちに心のふるさとに戻ったのか、懐かしく落ち着いた気持ちになりました。

【漱石を知っていますか】を読む

【漱石を知っていますか】阿刀田高著:新潮文庫

午前中に台風11号の強風域に入りました。

前回のブログ記事で自慢げに紹介したアサガオ棚が、風にあおられて今にも倒れそうです。

こういうときに下手に外に出て直そうとすると事故になりますので、プレハブ内で見守ることにしました。

見守りがてら、以前より読んでいた【漱石を知っていますか】阿刀田高著:新潮文庫(右上写真)を読み終えました。

で、思ったことを紹介します。

 

現在の小説家〈阿刀田高〉が、100年以上も前に書かれた夏目漱石の小説について評価するという内容になっています。

評価対象になっている小説は、
①吾輩は猫である ②坊ちゃん ③草枕 ④虞美人草 ⑤三四郎    ⑥それから ⑦門 ⑧夢十夜 ⑨彼岸過迄 ⑩行人 ⑪こころ ⑫道草 ⑬明暗
です。

評価に至るまでの阿刀田氏の重層的なものの見方や考え方に、プロならではの力量がひしひしと感じられました。

各々の評価内容については、みなさんのほうで是非お読みになってください。

 

私こと
〈45年ほど前に〉上記①~⑬のうちで⑧の夢十夜を除き、ほか全部を読みました。

が、何しろそれから半世紀近く経っていますので内容はほとんど忘れてしまい、ただ楽しく読んだことを覚えていました。

今回阿刀田氏の著書を読んでいるうちに、おぼろげながら記憶が蘇ってきました。

と同時に、漱石のおもしろさを改めて知るところとなりました。

当時読んだ漱石の本は処分していないはず、頭が確かなうちに再度読みたく思っています。

 

最後に、阿刀田氏の著書で印象に残った箇所を紹介します。

… 総じて夏目漱石は、〈万葉集〉や〈源氏物語〉、いや、もっと古くからこの国に輝いた文芸の伝統と、新しくヨーロッパに咲いた小説という形式をどう融和させるか、それを具体的に創作して示した。それにふさわしい日本語のよい例をも示した。この点において後代に著しい宝物を残した文豪であった。まだ近代文学の揺籃期の気配が強く、小説の技法において巧みな人ではなかったが、残してくれた功績は、他を絶して見事である。この人なかりせば、日本の新しい文学はずいぶんと進展を遅らせたのではあるまいか、と私は思う。 …  P463より