毎年よ彼岸の入りに寒いのは

寒の戻りですな 2022 3.18 3:00PM 木立前で

寒い!

朝から気温がほとんど変わらず、最高気温7℃といったところか。

寒の戻りですな。(右写真)

 

外はずっと雨風状態で出る気になれず、プレハブ内で旧暦に関する本を読んでいると、

『毎年よ彼岸の入りに寒いのは』

の俳句が目に入ってきました。

彼岸入り?

まず、彼岸とは、春分、秋分の日を中日として、その前後7日間をいいます。

俳諧ではとくに春の彼岸をいうそうです。〈広辞苑第六版より〉

今年の春分の日は3月21日 … その前後7日間となると、3月18日から3月24日までが彼岸期間となります。

で、彼岸入りは3月18日となり、今日がまさにその日に当たります。
〈ちなみに3月24日彼岸明け〉

 

季節の節目をぴったりとらえた〈上記の〉俳句が気になりましたので、ネットで調べてみました。

以下、ネット【きんくんの閑談R‐ 楽天ブログ】より

… 明治26〈1893〉年3月に、正岡子規が母に「彼岸というのに、寒いね」とつぶやくと、母は、「毎年よ、彼岸の入りに寒いのは」と答えたそうです。
そのとき、子規は、母の答えが五七五になっていることに気づき、子規は、そのまま一句にしたとのことです。 …

 

寒さゆえに新たに一句を知ることとなりました。

今後、この季節を迎えるたびに 子規の『毎年よ … … 』の句を思い出すことでしょう。

【「孤独」という生き方】を読む

【「孤独」という生き方】織田淳太郎著:光文社新書

【「孤独」という生き方】織田淳太郎著:光文社新書(右写真)を読み、印象に残ったくだりを紹介します。


… 背伸びすることなく、自分の寸法に合った生き方で、自分にできることだけをすればいい。別に小さなことだっていい。自分にできることを達成することが大切だと思うし、そういう気持ちがなければ、何を求めても満足はしないし、意味がないと思うんです。 …
P110


… いまの時代、豊かさを何でもお金や物に換算する人間ばかりや。ホントの豊かさとは心の豊かさであって、お金じゃないんだよ。六本木の超高級マンションなんかに住みたいやつの気がしれんな。そんな金があったら、山でも買って、そこで動物や虫たちとのんびり暮らしたほうがはるかに贅沢や。 …
P216~217

 

上記①のくだりは、著者〈織田氏の知人で、80歳近くの女性の方の言葉である。
彼女は現在人気のない山奥に一人で暮らしている。
暮しはじめて10年以上経っているとのこと。

上記②のくだりも、著者の知人で、75歳ほどの男性の方の言葉である。
彼も山奥で暮らしており、そのような生活を始めてから30年以上経っているとのこと。

 

お二人とも孤独ではあるが、 ” 一人ぼっち ” という意味合いは薄い。

世の中とつながりを持ちつつも、他人に惑わされることなく、ゆったりとした時間の流れの中で凛として生きている。

私もそのようにしたいのだが … 、

まだまだですな。

【日本の未来へ】を読む

【日本の未来へ】梅棹忠夫編著:NHK出版

【日本の未来へ】梅棹忠夫編著:NHK出版(右写真)を読む。

内容の大半は、司馬遼太郎氏と梅棹忠夫氏の対談である。

古いもので50年以上前、新しいもので30年前の対談が載せられている。
〈司馬氏が亡くなったのは26年前の1996年〉

が、中味は古さを全く感じさせない。

紹介したいくだりはたくさんあるが、現在問題になっているロシアとウクライナについて語っている箇所があったので、それを紹介する。

 

司馬氏
「 … … ソ連が崩壊して、ようやくロシア人の誇りを高らかにうたえるようになった。そうすると今度は、ウクライナの人たちがおれたちはロシア人じゃなくて、そのもとになったルーシーであると主張する。モスクワの連中には、あれはタタールが半分入っていて、顔を見てもわかるだろう。かれらは純粋のルーシーじゃないというわけです。なるほどそう言われてみると、エリツィンもタタールの顔をしていますね。

梅棹氏
ウクライナはやっぱり大ロシアのもとなんですよ。ウクライナの首府のキエフはドニエプルの川のほとりにできた街ですけど、そのドニエプルに面して、キエフ国家に大発展をもたらしたウラジミール大公の巨大な像が建っているんです。そこからずっと北へ入っていく。ロシアの文明は南のキエフ大公国から来ている。それが大ロシアのもとだという意識が彼らには明らかにあります。

司馬氏
一人の人間が自分が属する民族を意識するとき、、決して心安らかじゃありませんね。ただのお父さんやお母さんでなくなってしまう。民族としての優越性か、劣弱感か、どちらかに上下してしまう。時にはテロにもなる。 … … 」
P46~47

 

30年前になされた対談である。

残念ながら二人はもういない。
〈梅棹氏が亡くなったのは10年前の2010年〉

ロシアとウクライナの関係 … うまく収まることを願う次第です。

【「明治」という国家】を読む

【「明治」とう国家】司馬遼太郎著:日本放送出版協会

【「明治」という国家】司馬遼太郎著:日本放送出版協会(右写真)を読み、印象に残ったくだりを紹介します。

… よくやった過去というものは、密かにいい曲を夜中に楽しむように楽しめばいいんで、日本海海戦をよくやったといって褒めたからといって軍国主義者だというのは非常に小児病的なことです。私はかれらは本当によくやったと思うのです。かれらがそのようにやらなかったら私の名前はナントカスキーになっているでしょう。 … P211

… 明治維新の最大の功績者は、まず徳川慶喜だったでしょう。かれは幕末、外国文書では ”日本国皇帝” でした。それが、鳥羽・伏見における小さな敗北のあと、巨きな江戸期日本そのものを投げだして、みずからは水戸にしりぞき、歴史のかなたに自分を消してしまったのです。退くにあたって、勝海舟に全権をわたし、徳川家の葬式をさせました。となると、明治維新最大の功績者は、徳川慶喜と勝海舟だったことになります。 … P244~245

… 西郷〈隆盛〉が東京にいたたまれなくなったのは、じつは政論・政見といったものよりも、馬車に乗り、ぜいたくな洋風生活をとり入れて民のくるしみ(百姓一揆が多発していました)を傲然と見おろしているかのような官員たちの栄華をこれ以上見ることに耐えられなくなったからでした。西郷は、真正の武士でした。 … P268

… 西南戦争を調べていくと、じつに感じのいい、もぎたての果物のように新鮮な人間たちに、たくさん出くわします。いずれも、いまはあまり見あたらない日本人たちです。かれらこそ、江戸時代がのこした最大の遺産だったのです。そして、その精神の名残が、明治という国家をささえたのです。 … P270

 

列強が虎視眈々と日本を狙っていた時代に、先人たちは、江戸期日本から「明治」という国家を立ち上げました。

多大な犠牲の上に成り立った国家でした。

それを可能にしたのは、

徳川慶喜、勝海舟、西郷隆盛、大久保利通をはじめ、

『私心のなさ』『誠実』『質素』『勤勉』『自立』『倹約』『聡明さ』を地で行くような当時の人たちでした。

彼らに改めて感謝する次第です。

 

前々回のブログ記事でも言いましたが、

司馬遼太郎の著書を読むと、

「日本っていい国なんだなあ。いいことは継いでいかないと … 。」

といつも思うのです。

すてきな読書タイムは夕日で終了

本日の読書は西窓から射し込んできた夕日で終了 2022 2.18 4:55PM

午後は読みかけの本〈明治という国家:司馬遼太郎著〉の続きを読みました。

薪ストーブの傍に二つの椅子を寄せ、一方に深く座り、もう一方に足を乗せながらという恰好で … 。

※ 案の定途中で30分ほど居眠りをしてしまいました。
読む姿勢といい、居眠りをしてしまったことといい、著者に申し訳ない。

 

途中で一度休憩がてら木立をひと回りしたきりで、あとはずっと ” 司馬ワールド ” を漂っていました。

江戸から明治に移り変わっていくときの雰囲気が、ビビッドに伝わってきます。

まるで私自身が当時の志士であるかのように、幕末の危なっかしい日本を心配しています。

小栗豊後守忠順、勝海舟、パークス〈英国公使〉など、個性的な人たちを間近で見ているようです。

そして、いつの間にか

「日本っていい国なんだなあ。いいことは継いでいかないと … 。」

というような気持ちになっている自分 … 。

※ 今までに司馬氏の著書を数十冊読んでいますが、どれを読んでもなぜかしらそうなるんですな。

 

漂っているうちに西窓が急に明るくなりました。

木立の木々の間から射し込んできた夕日でした。(右上写真)

時計を見ると、4時55分。

「司馬ワールドもええけど、続きは明日読めばどーや。」

と言っているようでした。

すてきな午後でした。