【小林一茶 〈漂鳥〉の俳人】 を読む

【小林一茶 〈漂鳥〉の俳人】金子兜太著:講談社現代新書

先日【金子兜太養生訓】を読み、おもしろかったので、金子氏の書いた【小林一茶 〈漂鳥〉の俳人】:講談社現代新書「(右写真)を読みました。

以下、印象に残ったくだりを紹介します。

 

… 一茶の本音は、自分は芭蕉とは違う、ということだった。そのことが随所ににじみでていた。いちばんはっきりしているのが、前に紹介した、「景色の罪人」という考えかたなのである。目があっても犬と同じ、耳があっても馬のようなもの。初雪がきれいに降る日でも「悪いものが降〈ふる〉」と謗〈そし〉るし、時鳥がテッペンカケタカと鋭く鳴きすぎても、やかましいと憎むだけ。月が出ようと花が咲こうと、ただ寝ころぶだけさ。 … P177~178

… 古代人が、山川草木、鳥獣魚類のすべてを、生きものとおもい、それに精霊を感じ、カミとおもっていた、かのアニミズムといわれている感応の世界が、一茶の中に(身体の芯に)、人一倍色濃く宿っていた、 … … P183

… 成りゆき一切を阿弥陀如来にまかせて、自分は自分なりに生きていく…… この如来信仰の自得は、この文を書いた翌年、中風に倒れて命拾いしたあと、ますます徹底していくことになる。「ことしから丸儲ぞよ娑婆遊び」と命拾いした翌年の正月に作り、その次の年の60歳の正月になると、自分は「荒凡夫〈あらぼんぶ〉」で、迷いのかたまりのような男だ、といいきるようになる。こんな男の「愚につける薬」はないかもしれないが、「なを行末も愚にして、愚のかはらぬ世をへることをねがふのみ」。迷いのふかい、なにもわかっていない自分だが、それはそれなりに、生きていこう。荒凡夫となって生きていき、「娑婆遊び」を楽しもう。他人に気がねなどいらぬ、というわけである。
… P196~197

 

「やれ打つな蠅が手を摺り足をする」
「雀の子そこのけそこのけ御馬が通る」
「痩蛙まけるな一茶是ニ有」 … etc.
一茶の俳句は日々の生活を映していてスッと入っていける。

そのような俳句が生まれた経緯について、本書では、

一茶の紀行や日記はもとより、金子氏の豊かな知識、経験、そして、人を見る確かな目を通してとてもわかりやすくまとめられている。

最後に、この時期にふさわしい一茶の句で締めたい。

ともかくもあなた任せのとしの暮

※ あなたとは阿弥陀如来のこと。

【金子兜太養生訓】を読む

【金子兜太養生訓】黒田杏子著:白水社

降ったり止んだり。

時たまあられも。

寒い〈最高気温8℃?〉日です。

【金子兜太養生訓】黒田杏子著:白水社(右写真)を読み、印象に残ったくだりを紹介します。

 

… 漂泊者はメモをするのが好きなようです。一茶もそう、山頭火もそう、尾崎放哉もある程度、メモ好きに近いものがある。彼らはみな、移動していきますからね。まとめた表現ができないので、記録だけしていくんです。書かざるをえなかったんだろうな。不安なんです。何でもいいから書いておきたいという気持ちがあるんじゃないかな。捨てるのが惜しい。過ぎ去ったものだからいいんだという割り切りができない。未練がましいというか。私もトラック島で1日も欠かさず書いていましたから、やはり漂泊者だ。漂泊者の系譜に連なっているんですな。 …
P182

… だいたい俳諧師は連歌師以来、旅の中で暮らしを立てていたわけです。そういう彼らの生活形態が伝わっているわけだが、そういう伝統は私たちの時代にはもうない。俳句を売って歩いて食っているなんてことはまず考えられないということから、定住状態にいて、自分の内なるこの漂泊の心情をいかに温めていくか。しかし、温めるだけでは生きる力にならんかもしれんから、この漂泊心情をテコにして、何かを定住の状態の中に築き上げていく。漂泊の心情というものを抑え込んで、それを創作のエネルギーにして具体的なものを作り上げていく。そういうふうに考えていかないといかん。
私の場合だと俳句と自分の考えというものを築き上げていこう。金子兜太独自のものを築き上げていこう。 … P226

 

一茶、山頭火、尾崎放哉、金子兜太と同列に並べて自分を語ることは非常におこがましいのですが、ひと言語らせてください。

私がほとんど毎日メモをするようになったのは定年退職後です。
〈そのメモをもとに日々ブログ記事を書いています〉

ということは、私も ” 漂泊者 ” ?

金子氏がおっしゃる通り、私が毎日メモをするようになったのは、〈定職がなくなり〉不安で、何でもいいから書いておきたいという気持ちになったのかもしれません。

 

が、私も金子氏同様定住者の身。
〈再度言いますが、同列に並べてすみません。〉

漂泊の心情を創作のエネルギーにして木立の手入れにいそしみ、みなさんの目を楽しませるようなガーデンを築き上げていきたいと思っています。

【自助論】スマイルズ著 を読む

【自助論】スマイルズ著/竹内均訳:三笠書房

今日も終日悪天候。

【自助論】スマイルズ著/竹内均訳:三笠書房(右写真)を読む。

印象に残ったくだりを紹介します。

 

… たとえ努力が水泡に帰そうとも、ベストを尽くしたと感じているならそれで満足できる。 … P87~88

… 失われた富は勤勉によって元通りにできるかもしれない。失われた知識は勉学によって補充でき、失われた健康は節制や薬で取り戻せるかもしれない。だが、失われた時間だけは永遠に戻ってはこないのだ。 … P125

… 単なる知識の所有は、知恵や理解力の体得とはまったく別物だ。知恵や理解力は、読書よりもはるかに高度な訓練を通じてのみ得られる。一方、読書から知識を吸収するのは、他人の思想をうのみにするようなもので、自分の考えを積極的に発展させようとする姿勢とは大違いだ。
… … われわれは自分が「いかにあるべきか」、そして、「何をなすべきか」を自分自身で選び取る必要がある。単なる読書にうつつをぬかし、他人の人間像や行動をほめたりけなしたりしてそれで満足というのでは困る。すぐれた知識はそのまま自分の生活に反映し、すぐれた思考はそのまま自分の行動に結びつくはずだ。 … P178~180

… いくら貧しくとも誇りを高く保ち、誘惑をものともせず、身を落とすようないやしい行為をもきっぱり拒絶している人間を見るにつけ、われわれは尊敬の念を禁じ得ない。 … P180~181

… 人間の言動は、あとあとまで何らかの形で他人に波及していく。これは打ち消しがたい厳粛な事実だ。どんな人間でも、われわれの生活に多少とも感化を及ぼし、知らず知らずのうちに影響を与えている。
立派な行動や言葉は、それが結局は実を結ばないものであっても、いつまでも人の心に生きつづける。悪しき行動や言葉の場合も同じだ。 … P202

 

【自助論】は1858年〈日本でいうと幕末の頃〉に出版されたとのこと。

その内容は今でも十分通用するように思いました。

とくに上記3つ目のくだりの
「いかにあるべきか」、そして、「何をなすべきか」については、
若い人や現役で働いている人たちだけでなく、退職者にとっても大切なことに思いました。

むしろ退職者にとってより大切なことかも … 。

板坂元の著書を改めて読んで

【人生後半のための知的生きがい入門】〈左〉 【人生後半のための知的生活入門】〈右〉    共に板坂元著:PHP文庫

先日菜園横にある物置を整理していたときでした。

板坂 元〈江戸文学研究者・大学教授〉の著書【人生後半のための生きがい入門】【人生後半のための知的生活入門】:共にPHP文庫(右写真)が目に付き、拾い読みをしているうちにはまってしまいました。

自宅に持ち帰って読み直しました。

印象に残ったくだりを紹介します。

 

【人生後半のための生きがい入門】より

… 秋が去って冬が来れば、古いものは散って消えていく。 … … 衰えが見えたら、さっさと身を引くいさぎよさ、ひょっとしたら、これが最高のお洒落かもしれない。 … P44

… 生きがいは「生活をいとなんで行く上の実利実益と関係がない】「させられるのではなく、やりたいからやる」「個性的なものである」「ひとがそのなかでのびのびと生きていけるような、そのひと独自の心の世界をつくる」 … P92
著者が神谷美恵子の著書『生きがいについて』から引用

… … 私は孤独に耐える力を持っているつもりだ。私は、『濹東綺譚』の永井荷風の言葉のように、「徒党を組んで事を為す」ことがきらいだ。ゴルフやカラオケを避けるのも、仲間と連れだって遊興することがにがてだからだ。与えられた持ち時間は、大事に自分自身のために使いたい。 … P210

人生後半のための知的生活入門】より

… … 生活は簡素で静かであることに越したことはない。 … … 社会生活や食・住の生活をシンプルにして、現実を見直すことは難しくないと思う。おそらく、私にとっては大変に贅沢な生活になるだろうが、せめて人生の一時期はそういう生活を送ってみたいのだ。 …
P48

… 足の向くままに、小さな発見を楽しんでいく生活が、晴耕雨読の生活の中に組み込まれるなら、文句なしに新しい人生が建設できる。 … P96

 

人生の後半にさしかかった頃に〈20年ほど前…40半ばの頃かな〉 一度読んでいるはずなのに、内容をほとんど覚えていませんでした。

… … が、体が覚えていたようで、

今回紹介した〈上記の〉5つのくだり … 細々とながらも現在実践させていただいております。

” いい顔 ” でありたい

ユーチューブ 『若者たち~遠い世界に~或る日突然/トワ・エ・モア(白鳥英美子、芥川澄夫) 青木まり子』より

〈午前〉8時頃より雨が降り出し、昼過ぎから雨足が強くなる。

止む気配なし。

集落の行事の案内文書を作成すると、あとは何もする気が起こらず。

室内作業や読書などをしようとの意欲も湧かず … 。

 

ユーチューブでジャズを聴くことに。

… が、10分ほど流しているとなぜかしらフォークが聴きたくなる。

歌を聴いているうちに、それらが流行っていた中高生時代を懐かしく思い出し、級友たちの顔が浮かぶ。

「みんな元気でやっているかな?」と。

 

とくにトワ・エ・モアと青木まり子の歌に聴き入る(右上写真)

いや、見入ってしまったと言った方が正確かもしれない。

繰返し20回近く視聴する。

『若者たち』『遠い世界に』『或る日突然』の歌もさることながら、3人〈白鳥英美子,芥川澄夫,青木まり子〉の顔がいい。

青木は今日初めて知ったのだが、白鳥、芥川にいたっては、私が中高生の頃見たときよりずっといいように思われた。
〈いつ録画したものかわからないが〉

… 顔は履歴書 … という言葉を思い出した。

 

ふと自分の顔に思い至った。

いつも木立の中を泥や木屑にまみれて這いずり回っている65歳のジイサンの顔のことを。

〈顔立ちがよくてハンサムとか美人とかではなく〉
” いい顔 ” でありたいものだ。