【毎日が日曜日】を再読する

【毎日が日曜日】城山三郎著:新潮文庫

【毎日が日曜日】城山三郎著:新潮文庫(右写真)を再読しました。

最初に読んだは、42年前。

奥付に昭和54年11月発行とありますので、就職する数か月前ということになります。

※ ちなみに私が就職したのは昭和55年〈1980年〉。
就職してから読んだ記憶はないので、いつ読んだかが割とはっきりわかります。
当時買ったものは処分してしまいました。
先日古本屋さんでたまたま見つけ、再度読みたくなり購入しました。

 

再読する前に、内容についておぼろげながら覚えていたのは、
定年退職者が人生の最期に大型冷蔵庫に入って死ぬことだけでした。

 

再読して印象に残ったくだりを紹介します。

… やりたいことを気ままにやる。やりたくないことは、一切、やらない。たのしくないことには、見向きもしないんだ … P34

… 孤独な退職者たちにとって、スモッグ以上におそろしいのが、退屈さである。さまざまな刺激に満ち、雑然とした大都会は退屈さをまぎらわせてくれる。孤独な退職者には、大都会こそよく似合った。
… 219

… 平凡な話だが、いちばんいいのは、、生計の道は別にあって、気が向いたときだけ、釣りに行くというくらしじゃないのかね。
… P403

… 何のために生きているかなどといわず、はげしい楽しみも求めず、いまの生活のままで、まずまず満足すべきではないか … P423

… 「気ままで長生き」するためには、少しばかり内容があり、働きがいのある生活は必要のようであった。何かひとつ、軽く支えになるものがあり、また、軽くたよりにされるものがあっていい。日程表の先の先まですべて空白というのでなく、適当にたのしい日程ができていて、しかも、空白が多い、という感じがいい。
それに、完全に無為、完全に孤独ということになると、ただ等身大の存在が社会に残留しているだけということになり、不安定であり、妙ないい方だが、地球のお荷物になっている、という感じにもなる。完全に自由になるためには、むしろ、少しばかり、地球に貸しがあった方がいい。 … P535~536

 

40年以上も前に著者が言ったこと … 今でも十分に通用するようです。

現在出回っている退職後の過ごし方に関する本の内容とそれほど変わらないようにも思われます。
〈退職前後にその手の本を20冊ほど読みました〉

何やかんやいって、最終的に具体化していくのは自分自身ですな。

今日は『歎異抄デー』でした

2個とも見るからにおいしそうなウリですな

朝からずっと雨。

止む気配なし。

プレハブ内に籠って読書とユーチューブ視聴をすることに。

今日は『歎異抄〈たんにしょう〉デー』にしようか。

 

午前と午後に小雨状態の時間帯がありましたので、それぞれ30分ほど傘をさして木立を散歩しました。

昼は飯盒でご飯を炊き、おかずは昨日の夕食の残りで済ませました。

※ 夕食でおかずが余ったとき、それを持って来てレンジで温め、昼食のおかずにしています。〈それで十分〉

時折、コーヒーを飲みながら窓外の雨の景色を楽しみました。

… あとは歎異抄の世界で、親鸞先生及び唯円先生と静かに語り合い …

穏やかな時間でした。

 

〈午後〉4時を過ぎた頃に雨が上がりました。

それからしばらくすると集落のおじいちゃんが訪ねて来ました。

「おるか? ああ、休んどるとこ悪いのお。 … これ持って来たんや。 … 今年は不作や思うとったけど、最近急に生〈な〉り出してのお。 … ウチだけで食べ切れんし、持って来たんや … 。」

手に2個の黄色いウリ(右上写真)が入った袋を持っていました。

「見るからにおいしそうですね。 … いただきます。」

と丁重にお礼を言いました。

 

おじいちゃんが帰った後、はたと気がつきました。

彼が熱心な浄土真宗の門徒だということを。

… … …

まさに『歎異抄デー』というに相応しい一日と相成りました。

【歎異抄】を座右の書として

左から 【歎異抄】安良岡康作訳注:旺文社文庫,【『歎異抄』を読む】田村実造著:NHKブックス,【歎異抄】本願寺出版社,【歎異抄をひらく】高森顕徹著:1万年堂出版

・【歎異抄】安良岡康作訳注:旺文社文庫(右写真)
・【『歎異抄』を読む】田村実造著:NHKブックス(右写真)

これら2冊、若かりし頃買うも、意訳を少しだけ読んでお蔵入り … 。

・【歎異抄】本願寺出版社(右上写真)
を退職時〈4年前〉に西本願寺〈京都市〉にて購入も、意訳を3~4回読んで枕代わりに … 。
〈親鸞先生、唯円先生、ゴメンナサイ。〉

 

どうして読むのを止めてしまったのか。

歎異抄第3章のあるくだりを例にとると、

… … 自力で修めた善によって往生しようとする人は、ひとすじに本願のはたらきを信じる心が欠けているから、阿弥陀仏の本願にかなっていないのです。しかしそのような人でも、自力にとらわれた心をあらためて、本願のはたらきにおまかせするなら、真実の浄土に往生することができるのです。 …
【歎異抄】本願寺出版社 P8より

とあります。

で、私は、

◇ 自力で修めた善によって往生 → これのどこがダメなんだ!
◇ 自力にとらわれた心をあらため → 努力するなっていうことか!

というように感じました。

他のいくつかの章においてもそのように感じたくだりがあり、そのことが、読むのを止めてしまった主な原因でした。

 

昨夕たまたまユーチューブで、菊谷隆太氏が歎異抄について語っているのを視聴しました。

今日も朝から雨 … で、プレハブに籠り、午前中ずっと氏のユーチューブを視聴していました。

昨夕の分と合わせ、全部で10番組ほど視聴したでしょうか。

歎異抄でいっている ” 他力  を単に他人頼みととらえていた自分が浅はかで恥ずかしく、情けなくなりました。

すぐにお蔵入りになっていた本を引っぱり出してきました。

そして、菊谷氏の推奨する【歎異抄をひらく】高森顕徹著:1万年堂出版(右上写真)を買ってきました。

※ これで歎異抄に関する本は全部で4冊となりました。(右上写真)
時と場合に応じて使い分けて読んでいきたいと思っています。

 

現在65歳 … 浄土真宗の門徒でもあります。

歎異抄を読むにはちょうどいい頃合いかも。

ひょっとして今回の秋の長雨が、歎異抄に結び付けてくれたのか … 。

これも ” ご縁 ” かな。

座右の書として、できれば原文で読んでいきたいと思っています。

【思想なんかいらない生活】を読む

【思想なんかいらない生活】勢古浩爾著:ちくま新書

晴耕雨読を地で行くような生活をしております。

さて、【思想なんかいらない生活】勢古浩爾著:ちくま新書(右写真)を読み、印象に残ったくだりを紹介します。

… … わたしはいかなる意味においても「知識人」なんかではない。むしろ存在のあり方としては、完全に非知識人である。
けれども、哀しいことに世間ともなじまない。世間の価値になじんで何の違和も感じないのが大衆だとするなら、わたしはたぶん大衆ではない。世間と根本的には打ち解けることができない。大衆の「明るさ」はわたしにはない。陰鬱である。無口である。わたしはちっとも深刻でも難解でもないのに、世間に対して親和的ではない。世間での当然な振る舞い、世間が求める欲望はわたしのものではない。なぜかはわからない。 … P236

 

先日読んだ森田療法に関する本〈前々回のブログ記事参照〉に、

神経症に陥る主な原因は、

理想と現実の落差を埋めようと頑張り過ぎることにある、というようなことが書かれていました。

ふと「下手に思想を持つと理想も高くなるんだろうな」と思いました。

で、ちょうど手元に【思想なんかいらない生活】というタイトル名の本がありましたので、さっそく読みました。

結論を先に言うと、思想がないことと神経症との因果関係については触れられていませんでした。

 

ただ、上記のくだりを読んだときに私のことを言っているようで、つい紹介した次第です。

※ 勢古氏を私と同列に並べるような物言いをし、たいへんな失礼かなと甚だ恐縮しております。

【日本語のために】丸谷才一著 を読む

【日本語のために】丸谷才一著:新潮社

終日雨でした。

プレハブに籠り、本を読んでいました。

読んだのは、【日本語のために】丸谷才一著:新潮社(右写真) … 以下、印象に残ったくだりを紹介します。

 

… … 口語文には、文語文という骨格がとほつてゐる。とすれば、子供に文語文を読ませることの重要性は至つて明らかな話になろう。それが日本語の文体をすこやかにし、美しく保つための、基本的な手段なのである。国語は常に古典主義によつて養われてゐなければならない。 … P38

… 日本自然主義と私小説とは、無教養を恥とせずにかへつて誇るような奇怪な文学風土を作りあげたのだが、これは現代文学と古典主義との関係をますます薄くさせたし、現代文体をますます放恣なものにする大きな一因となつてゐるからである。 … P77~78

… 漢字というのは一字一字が意味概念を持つてゐるから、その組み合わせによる新語と出会つても類推がきく。 … P122

… 本来、一文明にとつて、その国語の最上の教師は、文学者であるはずなのだ。かういうことは、藤原定家にとつても、芭蕉にとつても、森鷗外にとつても自明のことだつたろう。しかし志賀〈直哉〉に至つて、文学者は国語の教師であることをやめ、さらには日本語をフランス語にかえようなどと、自分の生存の根拠を否定する説を吐くことになつたのである。 … P207

… われわれはあくまでも自分自身の精神と感覚のための貴重な道具として、日本語を大事にしなければならない。 … P208

 

二十歳頃のときに当著書を一度読んでいます。

正確な日本語を話したり書いたりする人間になりたいと思っていました。

あれから45年 … 結果は … … … 。

が、気持ちは当時とまったく変わりません。

読み書きをする体力がある限り、今後も日々精進したいと思っています。

 

今回再読し、著者〈丸谷氏〉の日本語を大事にしようという熱い思いを改めて知るところとなりました。

なお、著者の考え方や人柄等について、彼に近しかった川本三郎氏〈評論家〉が、氏の著書【そして、人生は続く:平凡社】〈P272~276〉で書いています。