【宇宙からの帰還】を読む

【宇宙からの帰還】立花隆著:中央公論社

【宇宙からの帰還】立花隆著:中央公論社(右写真)を読み、印象に残った箇所を紹介します。

 

以下、アメリカの宇宙飛行士たちが立花隆氏に話したことです。

… 宇宙体験は私の信仰を一層強めてくれた。正確にいえば、強めたというよりは、広げてくれたというほうがいいかもしれない。それ以前は私の信仰内容はファンダメンタリストのそれで偏狭だったが、宇宙体験以後は伝統的教義にあまりこだわらないようになった。はっきりいえば、他の宗教の神も認めるという立場だ。アラーもシッダも、同じ神を別の目が見たときにつけられた名前にすぎないと思う。 … P279
ファンダメンタリスト:科学が教えることより、聖書に書いてあることのほうがすべて正しいと信じる人〉

 

… 地球は無限の宇宙の中では、一つの斑点程度にしか見えなかった。しかしそれは美しすぎるほど美しい斑点だった。それを見ながら、いつも私の頭の中にあった幾つかの疑問が浮かんできた。
… … その答えが瞬間的に浮かんできた。 … すべてが一瞬のうちだった … 瞬間的に真理を把握したという思いだった。
… 私はたとえようもない幸福感に満たされた。それは至福の瞬間だった。神との一体感を味わっていた。 … P300~301

 

40年ほど前に、今は亡き親戚の主が、「おもしろかったわ」と言っていたのを思い出しました。

同感です。

※ 「おもしろかったわ」については、2.5付ブログ記事『40年前の葬儀の礼状』をご覧ください。

 

地球の環境とまったく異なる宇宙に出ると、地球にいたときには思いもしなかったことが起きるようです。

科学知識の塊ともいえる飛行士が、それも大半の飛行士が、あまりの地球の美しさや宇宙の静けさなどに神や宗教を意識したとのことです。

キリスト教、イスラム教、仏教等にこだわらず、それらすべての大元にいる神を意識したというのです。

中には、神の顔を手で触れられるのではないかと感じた飛行士もいたようです。

 

退職してから7年が過ぎようとしています。

その間、日中は木立の中で、ほとんど一人で作業をしてきました。

美しい青空や緑の木々に囲まれ、静けさの中にポツンといると、 “ 人知を超えた何か ” を感じるときがあります。

言葉でうまく表現できませんが … 。

40年前の葬儀の礼状

立春の日に 2024 2.4 3:05PM 木立前で

【宇宙からの帰還:立花隆著〈単行本〉】を途中まで読み、『しおり』〈業界用語ではスピンというそうですが〉を挟もうとすると、元々『しおり紐』の付いていない本でした。

が、それに代わるしおりらしきものが挟んでありました。

取り出してみると、何と葬儀の礼状ではありませんか。

日付は、昭和59年11月24日 … 〈薪風呂の〉親戚の主の父親が亡くなったときのものでした。

喪主の名前は、もちろん〈薪風呂の〉親戚の主

※ その主も2年前に亡くなりましたわ。
〈2022 4.21付ブログ記事『木立前のタンポポで日常の世界に』参照〉

 

【宇宙からの帰還:立花隆著〈単行本〉】を買った40年ほど前のことを思い出しました。

何かの用事で親戚に行ったとき、その本を車の助手席に置いてあったのです。

親戚の主がそれを見て、

「おもしろそうや … わしも読んでみたいのお。」

と言ったので、貸したのでした。

「おもしろかったわ」という彼の読後感を、今でもはっきり覚えています。

で、そのとき、私もすぐに読もうと思ったのですが、あれこれとすることが続き、今日に至った次第です。

 

100ページ余り読んだけど、親戚の主が言っていた通り、おもしろい。

と同時に、懐かしさがこみ上げてきました。

天気のいい立春の日に重なったのも何かの縁かな。(右上写真)

『フランクル』を読む

【夜と霧】フランクル著:みすず書房〈左〉   【それでも人生にイエスと言う】フランクル著:春秋社〈右〉

入院時〈1.18~1.21ヘルニア手術のため〉、『フランクル』の著書を2冊読みました。

※ 『フランクル』
ナチスの収容所より生還したオーストリアの精神科医

1冊は【夜と霧】〈みすず書房〉で、もう1冊は、【それでも人生にイエスと言う】〈春秋社〉(右上写真)です。

両著書の内容には重なる部分が多く、よって【夜と霧】の中から、とくに印象に残った箇所を紹介します。

 

… … 人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれに期待しているかが問題なのである。哲学的に誇張していえば、ここではコペルニクス的転回が問題なのであると云えよう。すなわちわれわれが人生の意味を問うのではなく、われわれ自身が問われた者として体験されるのである。人生はわれわれに毎日毎時問いを提出し、われわれはその問いに、詮索や口先ではなくて、正しい行為によって応答しなければならないのである。 …  P183

… … われわれはこの地上には二つの人間の種族だけが存するのを学ぶのである。すなわち品位ある善意の人間とそうでない人間との「種族」である。そして二つの「種族」は一般的に拡がって、あらゆるグループの中に入り込み潜んでいるのである。専ら前者だけ、あるいは専ら後者だけからなるグループというのは存しないのである。この意味でいかなるグループも「純血」ではない……だから監視兵の中には若干の善意の人間もいたのである … P196

 

私が入院した1月半ばといえば、大地震後の余震がまだ頻繁に続いており、頑丈な病院といえども100%安全とは言い切れない状況でした。

一方、大病を患った人が笑うような鼠経ヘルニア手術でも、入院経験のまったくなかった私にとっては、一大事でした。

で、「 万一 … 」という思いが、小心な私の頭の中をよぎりました。

そんなときにおのずと手に取ったのが、上記の【夜と霧】と【それでも人生にイエスと言う】フランクルの著書でした。

手術も順調に進み、入院中に2冊ともじっくり読めました。

どちらも再読で、一度目より深く読めたように思っています。

… が、読み切ったとまではいっていないような気もしています。

これから先、3読、4読 … していきそうです。

【誠実と日本人】を読む

【誠実と日本人】相良亨著:ぺりかん社

前回のブログ記事の後半のところで、

「 … … 動けんようになったら、今度は ” 社会のお荷物や ” … … 」

と書きました。

※ 上記のことを書くときに、書こうか書くまいか迷いました。
たとえ自分が自分自身に対して言っているとはいえ、
” 言ってはいけないこと ”
延いては
” 思ってもいけないこと ”
のように思えたからです。

 

今日たまたま【誠実と日本人】相良亨著:ぺりかん社(右上写真)を読んでいたら、そのことに対する回答めいた箇所がありました。

紹介します。

… われわれ日本人が、今、しっかりと自分のものにしなければならないのは、 … … 人間とは何かと問うことにおいて捉えられてくる「人間の尊厳」の自覚ではないであろうか。それは他者が尊厳なる人間であることの自覚であるとともに、自己もまた尊厳なる人間の一人であること。しかして社会は、その尊厳なる人間によって構成されていることの自覚ではあるまいか。 … P136

※ 相良氏は、日本人が大切にする「誠実」について、
… 「誠実」のあまり、他者及び自己の「人間の尊厳」にまで考えが及ばないことがある …

という点に注目され、それを解明すべく【誠実と日本人】を著わされました。

 

” 尊厳なる人間 ” に対して ” お荷物 ” だなんて、恥ずかしい限りです。

〈2週間ほど前の〉入院時に、 ” 尊厳なる人間 ” がテーマともいえる【夜と霧】【それでも人生にイエスと言う】〈ともにフランクル著〉も読んだところなのに … 。
〈後に当ブログ記事で紹介したいと思っています〉

まだまだ未熟者 … 精進します。

【仕事なんか生きがいにするな】を読む

【仕事なんか生きがいにするな】泉谷閑示著:幻冬舎新書

【仕事なんか生きがいにするな】泉谷閑示著:幻冬舎新書(右写真)を読み、印象に残った箇所を紹介します。

 

… 問題なく動けて社会適応できている時には気付き難いことですが、私たち現代人は「いつでも有意義に過ごすべきだ」と思い込んでいる、一種の「有意義病」にかかっているようなところがあります。
… … 人が「生きる意味」を問わざるをえなくなるのは、必ずや「意義」を追い求める生き方に疲弊したからなのであって、そこで改めて「意義」を問うてみても、それで何かが見つかるはずもありません。生産マシーンのごとく、常に「価値」を生むことを求められてきた私たちは、「有意義」という呪縛の中でもがき続けていて、大切な「意味」を感じるような生き方を想像する余裕すらない状態に陥ってしまっているのです。 … P107

… 私たちは、もはや「何者かになる」必要などなく、ただひたすらに何かと戯れてもよいのではないか、それこそが「遊び」の神髄だと思います。
… … 「心」の向くまま気の向くまま気軽にやってみる。気が向かなければやらない。「継続」などと肩苦しく考えたりせず、ただ壮大な人生の暇潰しとして「遊ぶ」のです。 … P178

 

著者〈泉谷氏〉は精神科医をなされていて、たくさんの社会に適応できない人たちを診ているうちに上記のような結論に至ったのだと思われます。

「有意義病」 … どちらかというと、私自身も当てはまりそうです。
※ 今まで投稿したブログ記事を ” 有意義 ” の言葉で検索すると、5本ありましたわ。

先日思い切ってヘルニアの手術を受けたのも、「有意義病」と関係しています。

手術を受けるまで、

「一々ヘルニアを気にしとって、仕事〈木立の手入れ〉がまともにできるんかい。そのうち悪化して動けんようになったら、今度は ” 社会のお荷物 ” や。」 … しっかり治してバリバリ働けや!」

という「有意義病」が、私を支配していました。

※ 誰が言ったわけでもなく、私が私自身に言っていたのです。

 

” 無所属の時間 ” というタイトルで、のんびりしたようなブログ記事を6年余りにわたって書いてるけど、「持病」はそんな簡単に無くなりませんな。

これを機に、著者が言っているように「遊び」の部分を増やしていこうか。